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【閉店】サロン・ド・カッパ(SALON DE KAPPA)

本日の日替わりカレー 1,000円

閉店

サロン・ド・カッパ(SALON DE KAPPA)

「サロン・ド・カッパ(SALON DE KAPPA)」で「本日の日替わりカレー(1,000円)」のランチ[麴町] 麹町駅から徒歩1分くらい。飲食店が集中しているエリアにあります。
ランチは「カレー専門店」。ディナーは「イタリア料理」。 「サロン・ド・カッパ(SALON DE KAPPA)」で「本日の日替わりカレー(1,000円)」のランチ[麴町] ランチの時は店頭でお弁当も販売してます。「麻婆茄子」に「ガパオライス」とカオスな種類。

ランチメニュー

「サロン・ド・カッパ(SALON DE KAPPA)」で「本日の日替わりカレー(1,000円)」のランチ[麴町] 「10周年記念」としてカレー全品「100円引き」を実施してました。 「サロン・ド・カッパ(SALON DE KAPPA)」で「本日の日替わりカレー(1,000円)」のランチ[麴町] ランチアラカルトメニュー。トッピングもいろいろ。 「サロン・ド・カッパ(SALON DE KAPPA)」で「本日の日替わりカレー(1,000円)」のランチ[麴町] 「サラダ・ドリンク」が付いた「ワンプレートランチ」。 「サロン・ド・カッパ(SALON DE KAPPA)」で「本日の日替わりカレー(1,000円)」のランチ[麴町] 本日の日替わり。

本日の日替わりカレー(1,000円)

「サロン・ド・カッパ(SALON DE KAPPA)」で「本日の日替わりカレー(1,000円)」のランチ[麴町] 「サラダ」も付いていてお得な 「本日の日替わりカレー(1,000円)」を注文。
今日は「エビフライとカキフライカレー」。
まずは「サラダ」がサーブされます。 「サロン・ド・カッパ(SALON DE KAPPA)」で「本日の日替わりカレー(1,000円)」のランチ[麴町] 綺麗によそられた「ブラックカレー」。
「エビフライ・カキフライ」は以外と小さい。他の具は玉ねぎくらい。
頼んだメニューは失敗だったかも…。でも、フライはサクッと揚がり美味しい。
福神漬けではなく甘味強めなキャベツの甘酢漬けが少々添えられている。 「サロン・ド・カッパ(SALON DE KAPPA)」で「本日の日替わりカレー(1,000円)」のランチ[麴町] カレーはコクのある欧風カレー。「甘味・酸味」のバランスが良い。
辛さはほとんどない。スパイシーさもない。
見た目も味も上品だけど量も上品。もう少し量が欲しい。腹7分くらいかな。

卓上

「サロン・ド・カッパ(SALON DE KAPPA)」で「本日の日替わりカレー(1,000円)」のランチ[麴町]

店内

「サロン・ド・カッパ(SALON DE KAPPA)」で「本日の日替わりカレー(1,000円)」のランチ[麴町] テーブル席のみ。開放的な店内で落ち着いて食事が出来る。
11:30入店。12時すぎると込み合いだす。

2021年2月19日(金)に「閉店」

【閉店】「サロン・ド・カッパ(SALON DE KAPPA)」で「本日の日替わりカレー(1,000円)」のランチ[麴町] 2021年2月19日(金)に「閉店」されました。5月下旬に山下町にて新規オープン予定だそうです。
閉店

「サロン・ド・カッパ(SALON DE KAPPA)」店舗情報

おすすめ度 ★★★★☆☆
店名 サロン・ド・カッパ(SALON DE KAPPA)
交通手段 市ヶ谷駅 徒歩3分
住所 東京都千代田区 麹町3丁目5−5 サンデンビル 1F
営業時間 ランチ:11:30~14:30(L.O)
ディナー:18:00~22:00(L.O)
定休日 日曜日
ホームページ www.salondekappa.com
食べログ tabelog.com(口コミ:152件 / 評価:3.57)

麹町とは

麹町駅(こうじまちえき)は、東京都千代田区麹町三丁目にある、東京メトロ有楽町線の駅。駅北端に隣接して日本テレビ放送網麹町分室の社屋があり、本社が汐留の日本テレビタワーに移転するまでは当駅の入口が同社のテレビ番組に映ることが多かった。また、6番出入口のすぐ横はマイスタジオだったため見学客と共に駅を利用する客が出入りする姿も映っていた。かつては駅敷地内にも日本テレビ構内への出入口があり、コンコースの途中に日テレ学院の入口があった。2019年1月、番町スタジオの稼働に伴い麹町分室は閉鎖され、建物が解体されたため入口も無くなり、現在は壁面となっている。名の由来は町内に「小路(こうじ)」が多かったためという説、幕府の麹御用を務めた麹屋三四郎が住んでいたためという説もあるが、府中(ふちゅう)の国府(こくふ)を往来する国府街道の江戸における出入口であったため、つまりは国府路(こうじ)の町であったという説が有力である。